人間国宝の技と誇り

江戸時代に仙台藩で生まれた最高級絹織物
「仙台平」。
その伝統は、広瀬川の清らかな水のそばで
袴地を作り続けてきた
甲田榮佑・綏郎父子によって守られています。

仙台平の神髄を極めた男

江戸時代、仙台藩から皇室や将軍家への献上物とされるなど、最高級の絹織物として名高い仙台平。その仙台平を、芸術の域まで高めたといわれるのが、現当主・甲田綏郎(よしお)さんの父・甲田榮佑です。
榮佑について、綏郎さんは「明治気質の厳しさで技術を教えてくれた。私にとっては、日本一の師匠であり親だね」と語ります。
明治35(1902)年に仙台市で生まれた榮佑は、父である陸三郎、そして優れた技術者であった佐山萬次郎の厳しい指導を受け、20歳のときに「甲田機業場」を受け継ぎました。戦後の企業整備など、幾多の困難を乗り超え、仙台平の伝統を支え続けた榮佑は、昭和31(1956)年、重要無形文化財技術保持者として認定。この栄誉に応えるべく、伝統の保持と独自の工夫、創意を凝らしていき、織りの精緻さでは右に出る者がいないと評されたほど。そんな父を綏郎さんは「代々受け継がれてきた伝統技術に、素晴らしい美的感覚を注ぎ込んだ、仙台平の神髄を極めた人」と評します。昭和45(1970)年に亡くなるまで、仕事一筋に生きた榮佑の想いは、綏郎さんに受け継がれています。

榮佑は、絹糸処理の特許許可を2件取得。経糸に練糸、緯糸に無撚りの糸を数本に引き揃えた濡緯(ぬれぬき)を打ち込む、緻密な伝統技術に熟達しました

父から子へ―。
継がれゆく至高の技

現当主である綏郎さんは、昭和4(1929)年に仙台市で生まれました。
「四六時中工房に入りながら、仕事を覚えていった」という綏郎さんは、早くから父である榮佑に師事し、技術を学びました。修行して3年ほど経ったとき、こんなことがあったそうです。
「自分はもう何でもできる」と自惚れる綏郎さんに榮佑が「馬鹿言うな、お前には何にもできない!」と叱咤。
「父は品物を持ってきて私に『目をつむって、撫でてみろ。すべてが分かるか?』と聞いた。その意味が分かったのは、そこからさらに10年くらい経ってからだったね。目をつむって撫でてみれば、織った人の性格や物の良し悪し、すべてが織り上がりに現れるんですよ。それを教えてくれたのが、父でした」。
昭和45(1970)年に榮佑が亡くなると、綏郎さんは家業の合資会社本場仙台平工場(現合資会社仙台平)を受け継ぎます。この道一筋に仙台平の伝統を守り、平成14(2002)年には、親子2代に渡って重要無形文化財技術保持者として認定されました。親子で人間国宝となるのは、非常に稀なこと。しかしながら、綏郎さんは決して奢ることなく、謙虚に研鑽を重ねます。「私のところから納品した品物は一度だって返品されたことがありません。長い期間待っていて下さるお客様は、完成した品物を手にされた時、思っていた以上だといって喜んで下さる。それが、何よりの誇りであり、宝です」と、綏郎さんは笑います。

一度制作に入ると、昼夜を問わず製織に没頭する綏郎さん。製織は穏やかな中にも、筬(おさ)打ちごとに気迫をこめる難しい作業。出来上がるまで集中力を保つには長年の修行が必要とされます

日本男児のあこがれ「仙台平」

稲穂が黄金に染まる実りの秋を表現した作品「豊穣」(写真左)と数年かけて構想を練ったという綏郎さんの代表作「蓬莱山」(同右)

座れば優雅なふくらみを持ち、立てばさらりとした折り目が立ち、端然と形が整う。激しい舞いの動きなど、すべての動作に軽々と従う仙台平の袴。「男なら一生に一度は身に付けたい」と、日本の男たちがあこがれるのも、至極当然のこと。有名な話としては、川端康成がノーベル文学賞の授賞式に仙台平の袴を身につけて出席し、晴れの舞台に臨んだことが知られていますが、歌舞伎界や相撲界、さらには歴代総理大臣にいたるまで、一流著名人に愛好者が多いのです。
気品と美しさの中に強さが織り込まれた仙台平は、芸術品としての評価も非常に高く、綏郎さんの作品で文化庁所蔵の「雲渓」は、毎年全国各地で開催される「日本のわざと美展~重要無形文化財とそれを支える人々」で公開されています。また、伊勢神宮の神宮美術館に奉納した作品「瑞光」について綏郎さんは「私の作品が横山大観の絵と並んでいるのを見たときには、それは感動したね」と目を細めます。
袴地の最高峰ブランドとして愛されている仙台平は、日本が世界に誇る逸品として、この仙台の地で、これからもずっと守られてゆくことでしょう。

激しい舞いの動きなど、すべての動作に軽々と従う仙台平の袴。
晴れの舞台に仙台平を身に着けて臨むのは、日本男児の栄誉なのです