大正末期、思想家柳宗悦らを中心にはじまり、
現代のライフスタイルにも大きな影響を及ぼした民藝運動。
堤焼は長い歴史のなかで、民藝運動とも繋がりを持っています。
民藝運動を推し進めて仙台に訪れた柳宗悦は、
堤焼を見出し、その力強さを評価しました。
現代のライフスタイルにも大きな影響を及ぼした民藝運動。
堤焼は長い歴史のなかで、民藝運動とも繋がりを持っています。
民藝運動を推し進めて仙台に訪れた柳宗悦は、
堤焼を見出し、その力強さを評価しました。
美は暮らしの中にある。
新しい思想を提示した民藝運動
美術品ではない、職人の手による質素な実用品にこそ「本当の美しさ」が宿っている、というこれまでになかった新しい価値観を世に打ち出した思想家・柳宗悦。文芸雑誌『白樺』の創刊に関わったことや、日本を代表するプロダクトデザイナー・柳宗理の父であることでも知られています。美術にも造詣が深かった柳宗悦は、朝鮮陶磁器に魅了され、名もない職人がつくる日用品に美しさを見出していきました。大正14(1925)年に、良き理解者だった陶芸家の濱田庄司、河井寛次郎らと、職人の手から生み出された雑器や用具を「民藝」(民衆的工藝を略した造語)と命名。工業化で失われつつあった日本各地の手仕事の現場を訪れて民藝品の調査・収集を行い、民藝を取り入れた心豊かなライフスタイルを提示した一連の活動が民藝運動と呼ばれました。
昭和の始め頃、濱田とともに仙台にやってきた柳は堤焼に出合い、「釉は鉄であるが形いずれも強く、その力は他の窯では容易に見られない。(中略)しっかりした感じでは出色の窯だといっていい。」と『民藝紀行』に記しています。乾馬窯の先代のもとを訪れた2人は、なまこ釉の水甕を絶賛したそうです。
黒と白の釉薬が、ナマコの模様のように見えることから名付けられた“なまこ釉”。
堤焼の特徴である伸びやかに流し掛けられたなまこ釉は、
柳宗悦も「鉄釉に海鼠(なまこ)の色が流れ出たものは多彩で特に見堪えがする。」と讃えました。
力強く、美しい。
民藝運動の旗手・柳宗悦も惚れ込んだ堤焼
当時はどこの家庭でも使われ、人々の暮らしに溶け込んでいた水甕や壷などは、
柳の求めた「用に忠実な仕事」から生まれる「正しい工藝」そのものだったに違いありません。
「正しい作品より美しい作品はない」と柳は断言しています。
地元の土や釉薬を使って手技で生み出される堤焼は、「土地が与える材料を、どこまでも活かすこと」を忘れていない、
「自然と歴史と生活との綜和」に支えられた「地から生まれた郷土のもの」として高く評価されたのでしょう。
昭和11(1936)年、東京・駒場に日本民藝館が開設され、柳は初代館長に就任しました。
柳と濱田の2人が数度にわたって仙台を訪れ持ち帰った堤焼は、コレクションとして所蔵されています。