時代を愛でる人形を

300年以上の歴史を持ち、今なお多くのファンに愛され続ける堤人形。
いつも人々の生活の傍らにあったこの人形は、時代とともにその姿を変え続けてきました。

浮世絵をモチーフに流行りの人形を生み出す

〈1〉芳賀家にある2隻の屏風は同じ下絵から描かれている。1隻は芳賀強さんが受け継いだもので、もう1隻は大阪の堤人形コレクター・本出保治郎が保管していたもの。本出家が代替わりし、骨董市に出品されていたこの屏風を、芳賀さんが偶然発見しました 〈2〉現在も人気が高い「滝登り」。歌舞伎をモチーフにした浮世絵風の人形です 〈3〉お稲荷さんや雛人形など、信仰人形も多く作られました

仙台で200年以上人形を作り続ける芳賀家に、2隻の屏風があります。街道に沿って連なる茅葺屋根の家々。裏手には、煙を上げる窯場が見て取れます。そう、こののんびりとした風景は、陶器の街として知られた堤町の様子。仙台に住んでいた日本画家によって、昭和の初めごろに描かれました。
堤町は奥州街道の出入り口に位置する街です。藩政時代には、仙台藩の要所として足軽の家々が配置されていました。やがて平和な時代が訪れ、戦いに出ることがなくなった足軽たちは、町周辺から豊富に採れる良質な粘土を使い、陶器づくりを始めました。堤焼と堤人形の歴史の始まりです。
堤人形が最も売れたのは、文化・文政年間(1804~1830年)といわれています。その隆盛の立役者が、堤人形の代名詞にもなった“浮世絵風の人形”です。堤町の人形師は、参勤交代などで江戸からもたらされる浮世絵等を参考に、歌舞伎や相撲、遊女などの人形を作りました。浮世絵は、現代に置き換えるならアイドルやスポーツ選手のブロマイド写真のようなもの。堤町の人形師はその流行を敏感にとらえ、仙台の人々が欲する人形を次々に生み出していったのです。例えば、仙台藩出身の横綱・谷風。谷風が横綱になったのが、1791年の6月。そしてその翌年、1792年の4月には、堤町で谷風の人形が売り出されたという記録が残っています。テレビもインターネットもない、江戸から徒歩で情報がもたらされるこの時代にあって、驚きのスピード感と言えるでしょう。

浮世絵人形から信仰人形、そして新時代の人形へ

〈1〉現当主・強さんの父、佐五郎(1965年ごろに撮影)。日本画の技術を用いて能面なども作りました 〈2〉西郷隆盛や大久保利通など、明治の賢人をモチーフにした佐五郎作の人形 〈3〉大正時代の工房の様子。大勢の職人が寝食をともにし、人形を作りました

江戸時代末期になると、堤人形は不遇の時代を迎えます。天保の大飢饉(1833年)をはじめ、相次ぐ飢饉で人形師の家は次々に没落。戊辰戦争(1868~1869年)で跡継ぎを失った家も多くありました。さらに、西洋文化の流入で人々の心は素朴な土人形から離れていきます。人形師たちは次々に店を閉じ、明治時代になると堤人形を作る家はほんの数軒になっていました。
そんな中、芳賀家の現当主・強さんの祖父にあたる佐四郎は、明治時代の半ばに家督を継ぎました。当時芳賀家は陶器と土人形の両方を作っていましたが、佐四郎は陶器づくりを辞め、土人形のみを作るようになります。加えて、売り上げが落ちていた浮世絵風の人形ではなく、信仰人形の制作に力を入れるようになりました。信仰人形とは、お稲荷さんやお雛さまなど、人々の信仰にまつわる人形のこと。観賞用の人形は西洋人形にとって変わられても、人々の信仰はすぐに変わるものではありません。その判断が奏功し、芳賀家は土人形を作り続けることができたのです。
大正から昭和になると、堤人形は郷土人形としてコレクターの注目を集めるようになります。そんな中、家を継いだのが強さんの父である佐五郎でした。佐五郎は信仰人形を作る傍ら、新しい型の堤人形を模索しはじめます。研究のため、東京の人形師・井浦狂阿弥に師事。素朴でぽってりとした土人形ではなく、リアリティのある表情や体つき、生きている人間のような彩色の人形を作り始めました。堤人形の研究家・関善内(せきぜんない)は佐五郎の人形を『古い伝統に新しい時代感覚を盛って、世人の趣向に添った新しい堤土人形』と評しています。この新時代の堤人形は、コレクターから高い評価を受けました。

完全受注生産に切り替え、完成度の高い堤人形を

〈1〉芳賀強さんは2013年で72歳。「父が引退した歳になってしまいました」 〈2〉モチーフにふさわしい表情や着物の柄に、とことんこだわるのが強さんの作風 〈3〉現在は堤町三丁目の自然に囲まれた丘に工房を構えている

「父は温厚な人柄だったけど、仕事には厳しかったね。ちょっとへまをすると、『買ってくれる人はこの人形一つをもって堤人形全体を評価するんだ。お金をいただくにふさわしい仕事をしないといけない』と、こっぴどく叱られました」。現当主・強さんは、父・佐五郎をそう振り返ります。
強さんは、30代で佐五郎から芳賀つつみ人形製造所を受け継ぎました。そしてまもなく、大改革に打って出ます。徐々に仕事を縮小し、さらに、デパートや土産物店への卸を一切やめ、完全受注生産に切り替えたのです。
「若いころよく、出来上がった人形を持ってお客さんのところに行ったんですが、次第に包みをあけた瞬間に人形の良し悪しが分かるようになるんですよ。それを分かっていながら、良くない人形をお客さんに渡してくるのがたまらなくイヤでね…。それがずっと心にあって、自分が納得できるものだけを売りたいと思うようになったんです」。丁寧な成型に、細部までこだわった美しい彩色。そして、温かく豊かな表情。そんな強さんの人形に魅了され、注文はひっきりなし。一つの人形を入手するために数年待つのは当たり前、お雛さまの5段飾りを揃えるために、十数年待つ人もいます。
近年の人気は、江戸時代から作られている浮世絵風の人形。佐五郎が生み出した新作人形は注文の2~3割だそうです。「堤人形はたしかに伝統工芸品ですが、伝統だからと言ってそのままやってたんじゃ、だめ。着物の柄ひとつ、人形の顔色ひとつとっても、時代時代に合ったやり方があるんです。死ぬまで一人前にはなれないと思いますね。自分があの世に行ったとき、先輩方に怒られないように頑張るつもりです」。