仙台の銘産品として広く親しまれている「玉虫塗」。
この玉虫塗が、国策として開発された特許技術であることは地元仙台でもあまり知られていないのではないでしょうか。
玉虫塗の歴史をたぐると、近代工藝デザイン発祥の地という、仙台のもうひとつの素顔が見えてきました。

仙 台 が 近 代 工 芸 発 祥 の 地 っ て 本 当 で す か ?

仙台市の桜の名所・榴岡公園のすぐそば、宮城野区五輪に、
「工藝発祥」という文字が刻まれた記念碑があります。
そこはかつて玉虫塗など数多くの工芸技術を誕生させた、
日本初の「商工省(現在の経済産業省)工藝指導所」があった場所。
なにくわぬ顔で立つその石碑こそ、
仙台が近代工芸デザインの発祥の地であるという証なのです。

工藝指導所が仙台に開設されたのは昭和3(1928)年。
日本で初めて、全国で唯一の国の工芸デザイン指導機関として誕生しました。
設立の目的は、日本工芸の近代化と、東北の産業を開発すること。
世界恐慌以降の東北は産業が疲弊し、貧困が社会問題となっていました。
産業の活性化のために着目したのが、当時海外から高い評価を受けていた日本各地の工芸・民芸品。地域に根づく手工業の伝統技に光をあて、
輸出を視野に入れた新しいものづくりをしようという試みが始まったのです。

まず、さまざまな工芸品において新技法を研究するため、
近代デザインの感覚を身につけた新進デザイナーや、
木工、漆工、金工などの名工たちがスタッフとして仙台に集められました。
なかでもこの指導所の理念形成に大きな影響を与えたのが、ドイツ人の世界的建築家ブルーノ・タウトです。
昭和8(1933)年に顧問として招かれたタウトがもっとも強くこだわったといわれるのが、「良質生産」「見る工芸から使う工芸へ」という「造形理念」でした。
この理念は同所の指針として深く浸透し、その後の近代工芸デザインの基盤となります。
約40年続いた指導所は昭和42(1967)年の改組を受け、その活動を終えましたが、インテリアデザイナーの巨匠である剣持勇や豊口克平ら多くの人材を輩出。彼らは
日本デザイン界をけん引していく存在となりました。

工藝指導所庁舎正面にて。ブルーノ・タウト(左から7人目)を囲む所員たち

仙台市宮城野区に立つ「工藝発祥」と記された記念碑。約1万平方メートルという広大な敷地に2階建ての庁舎、 そして3棟の工場を有する工藝指導所があった場所だ。石碑は昭和45(1970)年に設置。デザインは指導所所員だった世界的インテリアデザイナー・剣持勇が担当

世 界 に 通 用 す る 新 し い 漆 芸 を 目 指 し て

玉虫塗は、伝統的な下地を施した器に、銀粉やアルミニウム粉を蒔き、
その上から染料を加えた透明な漆を吹き付けて仕上げます。
独特の鮮やかな光沢と色彩を生み出すこの技法は、昭和7(1932)年に当時の工藝指導所所員だった漆芸家・小岩峻(作家名は古明)によって発明されました。

工藝指導所では漆工の分野でも海外の人の嗜好に合う商品の開発がさかんに行われていました。
そこで大きな課題となっていたのが「色彩」です。漆器の色は、「顔料」を使うため暗く沈んでしまいがち。
日本ではそこが漆器の深みとも言われますが、輸出する工芸品となるとそうはいきません。
間接照明で暮らす欧米では、クリアで明るい発色が好まれていました。
また、もともと漆は気難しい塗料。
湿度、温度を管理しないと乾かず、天候や乾き具合によって色が変わるため、
生産できる量や納期が不安定。より多くの人に使ってもらうためにも、納期や価格は安定させたい__。
試行錯誤を繰り返す中で小岩が発明したのが、塗っては拭き取り、乾かすという作業を繰り返す漆器の伝統的な下塗り・中塗りの工程は生かす。
そして「銀粉を蒔く」「染料を使う」「透明な漆を塗り込む」という画期的な上塗りを施すという技法でした。
こうしてデザイン、色、工程、すべてに熟考を重ね、モダンで堅牢、独特の透明感を持つ彩漆「玉虫塗」を誕生させたのです。

玉虫塗の特許実施権を取得した東北工藝製作所は、昭和14(1939)年、仙台三越で玉虫塗新作発表会を開催。500点もの商品が展示された

創業時の東北工芸製作所。昭和8(1933)年に、工藝指導所と東北帝国大学金 属材料研究所の支援を受けて組合として設立し、その後法人化した。写真は初代社長に 抜擢された佐浦元次郎と従業員たち

工藝指導所時代に、玉虫塗の試作品として作られた「化粧パフ入れ」と「おしろい入れ」。色、デザイン、用途ともに、斬新で画期的なものだった(独立行政法人産業技術総合研究所 東北センター所蔵)

昭和10~20年代に作られた商品カタログ。海外向けの商品も数多く製作していたことがわかる

独 自 の 発 展 を 遂 げ た 玉 虫 塗

工藝指導所で誕生した玉虫塗を、仙台を代表する工芸品に育てたのは、
東北工芸製作所の初代社長佐浦元次郎です。
昭和8(1933)年に設立された東北工芸製作所は、昭和10(1935)年に玉虫塗の特許実施
権を得ると、元次郎を中心に精力的に商品を開発していました。
しかしそこに戦争という壁が立ちはだかります。
空襲などの影響で販売は伸び悩み、一時は生産停止まで追い込まれました。

大きな転機が訪れたのは戦後すぐのことです。
元次郎は、空襲で焼け残った仙台市青葉区上杉に
ある自宅で細々と玉虫塗の生産を再開。ちょうどその頃、自宅のすぐ近くにある簡易保険
局が接収され、進駐軍の米兵たちが行き来するようになっていました。
輸入食品店の明治屋で働いていた経歴を持つ元次郎は英語が得意。
そこで進駐軍の家族向けに、当時はまだめずらしかった洋食器を次々と製作し営業。
居宅の日本間を土足で上がれるよう改築しました。
モダンで艶やかな玉虫塗は、明るい元次郎の接客も一役買い、米兵たちの間でたちまち話題となり、たくさんの外国人が店に訪れるようになりました。
商品は飛ぶように売れ、1ドル360円の時代に、
100ドル分もの商品を購入し帰国する人も少なくなかったとか。

進駐軍が撤退した後は国内向けに暮らしの道具を数多く販売し、
一般家庭でも広く用いられるようになりました。
そして昭和60(1985)年に宮城県より伝統的工芸品の指定を受けると、
贈答品・記念品などの需要が増え、仙台の特産品としても親しまれるようになったのです。

時代の変化に柔軟に反応しながら、人々の求める漆器の形を探ってきた玉虫塗。
東北工芸に脈打つ使い手への思いが詰まった情熱が、玉虫塗を発展させてきた原動力だったのかもしれません。

創業当時は工藝指導所がデザインを担当。戦後は進駐軍の家族向けに、当時はまだ珍し かったキャンドル立てやコーヒーカップ、ナイフ・フォーク付きの皿なども製作

玉虫塗の新しい試みで作られた「煙草セット」。灰皿とライター、たばこ入れがセットになっている。機能性とデザイン性を両立させた色鮮やかな商品(独立行政法人産業技術総合研究所 東北センター所蔵)

写真左は東北工芸製作所初代社長の佐浦元次郎と妻の久(ひさ)。昭和23年頃に店舗と工場の完成を記念し撮影したもの。前列左から2番目が元次郎氏

昭和23~35年ころの店舗。看板は英語表記で作成

昭和24(1949)年にはマッカーサー元帥夫人までもが買い物に訪れ話題に

昭和30~40年代に発表された商品カタログ。英語版も配布されていた

昭和60(1985)年に宮城県伝統的工芸品の指定を受けたころの作品。
美しい蒔絵は専門の蒔絵師が施す。
このころから天皇陛下への献上品や県の記念品など、贈答用・記念品需要も増えた

※写真提供:東北工芸製作所
※参考文献:仙台市編纂委員会編『仙台市史 特別編3 美術工芸』